食べるあなた、食べるわたし

たまに驚くほど美味しいと感じるものに出会うことがある。口に含んで、舌に触れて、歯で裂くときに、思わず驚いて目が大きくなる。いつの間にか喉を滑り落ちる。誰に対してでもなく「こんな美味しいものを一人で楽しんでしまって…みんなごめんな!」とか思う。自分で作ったものだと尚嬉しい。こんなにも美味しいものを自力で自分に与えられるという証明は自信になる。更に他人に喜んでもらえたなら……世界がひとつ完成したような気持ちになるのかな、と想像する。食事が終わって何時間経ってもふと「おいしかったなあ」としみじみ振り返ることを、私は「まだ食べている」と言う。驚いた瞬間から今この時までがずっと地続きに感じられる。外食だったらSNSハッシュタグ検索し、ほとんど区別のない写真たちがぶわっと陳列する画面を見ながら「わかる!そうだよね~!やばいよね~!」と1人で頷いている。


食事が「食事をする主体」に与える影響は大きい。命を維持するためにはまず食べなければいけないし「食べたものから体は作られる」。生まれた文化圏や家庭によってそれぞれの味覚・食嗜好が形成され、美味しいと(いや、まずくてもか)感じたときには何度でも新鮮に感情が揺れる。私と同じく食べることに執着のある人なら特に共感してもらえるのではないだろうか。あの未知の驚き、期待を超える発見、作り手への敬意。


さらにその食事は「主体から生まれるもの」へも影響を及ぼす。
妊婦の食べたものはそのまま赤ちゃんにも分配(この言葉が正しいのだろうか)される。そのため、摂取量・もしくは摂取そのものを気を付けなければならない食べ物が多々ある。
それは創作というある種の出産でも似たようなことがあり、嵐山光三郎著『文人悪食』では、文豪たちの食生活と彼らの作品との関係性を知ることができる。

www.shinchosha.co.jp


例えば耽美主義で知られる永井荷風谷崎潤一郎には共通点があるようだ。どちらも東京の一等地に生家があり、若くして「舌が驕っていた」。
特に谷崎は「中国料理や牛肉煮込み、天ぷら、鰻といったこってりとした脂っこいもの」を好んでいた。*1 嵐山はその「ヌラヌラ、ドロドロ」嗜好の表現を、小説『美食俱楽部』を引用し解説する。
他にも一度に致死量以上の睡眠薬を飲んでいた坂口安吾や、泉鏡花の過剰な”食物嫌悪症”など、信じられないような逸話も多いので興味がある方はぜひ読んでみてください。
www.aoisakamoto.com



できればいつ何時でも心穏やかに食事を受け付けられると良いのだけど、実は私にとっては難しいことでもある。精神状態が環境の変化に左右されやすいためだ。

過度な不安やストレスを感じたり、何かに執着していたり(新しく推しが出来るなど)すると、多分交感神経が異常に働いて、食欲を感じられなくなり何も食べなくなることがままある。数日まともな栄養を摂取しない程度では目立った変化はないが、何週間後かには月経不順などの体調不良となって表面化する。女体で生まれたこともまた、私と、そしてあらゆる女性たちと、食事との関係を密接なものとする一つの要因であるように思う。

また、会食とかランチミーティング(なんだそれ!)のようなものが本当に苦手だ。仕事という位置付けの食卓にそれぞれ役割を持つ人間が集まり、やたらと言葉を必要としながら、全員ができるだけ同じスピード感で物を食べる(私はそれほど早くないので尚つらい)。その時食事はコミュニケーションのための道具となる。私の神経は過敏になり、喉も胃も閉じているような体では味も風味も分からない。そもそも食べることは影響されることで、今はできれば影響されたくなくて、でも今は食べることも仕事で、私は混乱する。周囲に気を遣いながら、何を食べているのか場の空気感に食べられているのか……。本当にしんどい!

やっぱり1人で真剣に食べ物と向き合うか、気心知れた人との食事が一番いい。
仲間と食う夜メシは最高だ。狭いアパートのひとくちコンロで友達とパエリアを作り、フライパンを一つダメにしたのもいい思い出。お気に入りのお店には、絶対合うと確信した人としか行かない。できればここのカレーをとびきり美味しいと感じてくれる人とお付き合いしてみたい。

食事は(そして食事をする環境は)良くも悪くも、主体の体から心まで直接影響を及ぼす。私はそこに他のあらゆる営みとは一線を画した力を感じる。
そして同時に、一緒にご飯を食べる「私」と「あなた」は全く別の生き物なのだと痛感する。


・・・・・・


食事を作る「私」と「あなた」。食事をいただく「私」と「あなた」。
同じものを食べて「美味しい!」と微笑みあう「私」と「あなた」。同じことをして、運よく共有まで出来ているのに、どうしても遠く感じる。
私が会食などを苦痛と感じる次点の要因となっている気もする。何かの拍子で敵対する可能性がある危うさを隠して、どう感じたかは別として今この場では「美味しいですね」という表情をする。固定電話機でメールは打てないようなもので、道具と使い方があべこべな感じ。

「ひとつの場に集まり」「各個体のスピードで」食事をすることを、私たちは「一緒に食べる」と呼ぶ。私たちはユージーとユーシーのようなことはできない。
私たちは別個の生き物だ。という感覚について、あるエッセイを読んで腑に落ちた。


unicoco.co


そうか。どんなに美味しいものでも「あなた」の体に入った後は目に見えず、どうなっているのか分からない。とても単純なことだけど気付かなかった。
「あなた」が咀嚼したものが、「私」の体と同じ影響を与えているのか、「私」は知ることができない。
同様に「私」も自分の体に起こっている変化の全貌を完璧に知ることはできない。ちょっとした体温の上昇や、気持ちのやわらぎを言葉にするくらいが関の山だ。「私」が感じられないだけで膵臓や肝臓はひどく疲弊しているかもしれない。


このエッセイの中で、一番ドキっとした一節を引用したい(先に述べておくと、表現が少々物騒だからではない)。

毎日、包丁を握る。刃先がぎらりと光る。これで同居人を殺せるのだと実感する。わたしの出す料理が同居人の肉体を形成し、明日を生きる体力を与えているのだから、それは生死を左右するのと同じことだ。包丁でぶすりと刺すまでもなく、わたしは同居人の生殺与奪権を握っているのである。

やっぱり食事は力だと思った。人間が料理を作り、本人や第三者が食すことで発生する、生かすも殺すも作り手次第の神的な威力。
その力を以てして消化器官の活動を維持し、今日も命を長らえる。成長期の子供が日々大きくなる。好きなものばかり食べている人の臓器は、じわじわ痛めつけられているかもしれない。
私たちは与えられた影響を隅々まで把握できることはないままに、また次の食事のことを考える。


・・・・・・


鷲田清一『感覚の幽い風景』にこんな一節がある。

「じぶん」の成立というのはひとつの損傷であると言えるかもしれない。
母からの、世界からの剥がれ、そういうものとして「わたし」は誕生するからである。

「わたし」というものがわたしだけのものではなく、誰もがじぶんを指し示すときに「わたし」と言ってよいこと、「わたし」はあなたにとっては「あなた」であり、「あなた」はあなたにとっては「わたし」だということ、そのことの了解のなかに「わたし」は生まれる。<他者の他者>としてのじぶんの了解、その上に「わたし」が編まれるのだとしたら、わたしが「わたし」として生まれたときには、唯一のものとしての「わたし」はすでに死んでいるということになる。わたしは誕生とともに死ぬ。たがいに別個の存在として「わたし」を了解しあう、そういうたがいの隔てのなかで、ひとはすでにじぶん自身とも隔たっているのだ。*2


これは「ほころび ー 食について」という章の一部である。
自分自身を理解することは人生を送るうえでとても大事なことのうちの1つで、しかし咀嚼した食べ物の全貌(=体内で起こっているあらゆる影響)が分からないように、「わたし」たちは生きているうちに自らの全てを把握することはできないのだろう。
そのうえでより「あなた」のことも分からない。
誰もが「わたし」であることを了解し、了解されている。否が応でもそういう土台からなる世界の中に生まれて、出られることのないままいつかは必ず死ぬ。だからそれまでに、自分の見えない部分の想像のように、「あなた」にとって「わたし」である「あなた」を思えたら。


例えばもうずっと会えていない家族や友人。こちらが一方的に少し知っているだけの有名人。ニュースで聞く行ったこともない場所や国。そこで「わたし」が存在すら知りえない「あなた」が笑ったり、傷ついていたりするかもしれないこと。

私は「わたし」すら絶対に理解しきることはできないという絶望的な世界との隔たり。
それって本当に怖い。世界を、手の届く範囲に矮小化してしまいたくなる。かわいくてていねいな暮らしに、熱中できる趣味に、私の脳でも理解できる陰謀の筋書きに。
でもそんな私みたいな孤独な生き物たちが、抜け出すことのできない世界で寄り合って今日もご飯を食べている。
「わたし」の中に「あなた」がいて「あなた」の中に「わたし」がいるという想像力。今私たちに必要なものはこれではないだろうか。そしてこれを大前提とした政治からなる社会のシステム。

こんな観念的なことを私はきっとすぐ忘れてしまう。ただただ暇な午後や眠れない夜に、「私、この先大丈夫だろうか」と思うだけで、一瞬にして私の世界には「わたし」しかいなくなる。
だから形にしておきたい。できれば満ち足りた食事をするときくらいは、「わたし」を思いやりながら「あなた」を思えるように。