食べるあなた、食べるわたし

たまに驚くほど美味しいと感じるものに出会うことがある。口に含んで、舌に触れて、歯で裂くときに、思わず驚いて目が大きくなる。いつの間にか喉を滑り落ちる。誰に対してでもなく「こんな美味しいものを一人で楽しんでしまって…みんなごめんな!」とか思う。自分で作ったものだと尚嬉しい。こんなにも美味しいものを自力で自分に与えられるという証明は自信になる。更に他人に喜んでもらえたなら……世界がひとつ完成したような気持ちになるのかな、と想像する。食事が終わって何時間経ってもふと「おいしかったなあ」としみじみ振り返ることを、私は「まだ食べている」と言う。驚いた瞬間から今この時までがずっと地続きに感じられる。外食だったらSNSハッシュタグ検索し、ほとんど区別のない写真たちがぶわっと陳列する画面を見ながら「わかる!そうだよね~!やばいよね~!」と1人で頷いている。


食事が「食事をする主体」に与える影響は大きい。命を維持するためにはまず食べなければいけないし「食べたものから体は作られる」。生まれた文化圏や家庭によってそれぞれの味覚・食嗜好が形成され、美味しいと(いや、まずくてもか)感じたときには何度でも新鮮に感情が揺れる。私と同じく食べることに執着のある人なら特に共感してもらえるのではないだろうか。あの未知の驚き、期待を超える発見、作り手への敬意。


さらにその食事は「主体から生まれるもの」へも影響を及ぼす。
妊婦の食べたものはそのまま赤ちゃんにも分配(この言葉が正しいのだろうか)される。そのため、摂取量・もしくは摂取そのものを気を付けなければならない食べ物が多々ある。
それは創作というある種の出産でも似たようなことがあり、嵐山光三郎著『文人悪食』では、文豪たちの食生活と彼らの作品との関係性を知ることができる。

www.shinchosha.co.jp


例えば耽美主義で知られる永井荷風谷崎潤一郎には共通点があるようだ。どちらも東京の一等地に生家があり、若くして「舌が驕っていた」。
特に谷崎は「中国料理や牛肉煮込み、天ぷら、鰻といったこってりとした脂っこいもの」を好んでいた。*1 嵐山はその「ヌラヌラ、ドロドロ」嗜好の表現を、小説『美食俱楽部』を引用し解説する。
他にも一度に致死量以上の睡眠薬を飲んでいた坂口安吾や、泉鏡花の過剰な”食物嫌悪症”など、信じられないような逸話も多いので興味がある方はぜひ読んでみてください。
www.aoisakamoto.com



できればいつ何時でも心穏やかに食事を受け付けられると良いのだけど、実は私にとっては難しいことでもある。精神状態が環境の変化に左右されやすいためだ。

過度な不安やストレスを感じたり、何かに執着していたり(新しく推しが出来るなど)すると、多分交感神経が異常に働いて、食欲を感じられなくなり何も食べなくなることがままある。数日まともな栄養を摂取しない程度では目立った変化はないが、何週間後かには月経不順などの体調不良となって表面化する。女体で生まれたこともまた、私と、そしてあらゆる女性たちと、食事との関係を密接なものとする一つの要因であるように思う。

また、会食とかランチミーティング(なんだそれ!)のようなものが本当に苦手だ。仕事という位置付けの食卓にそれぞれ役割を持つ人間が集まり、やたらと言葉を必要としながら、全員ができるだけ同じスピード感で物を食べる(私はそれほど早くないので尚つらい)。その時食事はコミュニケーションのための道具となる。私の神経は過敏になり、喉も胃も閉じているような体では味も風味も分からない。そもそも食べることは影響されることで、今はできれば影響されたくなくて、でも今は食べることも仕事で、私は混乱する。周囲に気を遣いながら、何を食べているのか場の空気感に食べられているのか……。本当にしんどい!

やっぱり1人で真剣に食べ物と向き合うか、気心知れた人との食事が一番いい。
仲間と食う夜メシは最高だ。狭いアパートのひとくちコンロで友達とパエリアを作り、フライパンを一つダメにしたのもいい思い出。お気に入りのお店には、絶対合うと確信した人としか行かない。できればここのカレーをとびきり美味しいと感じてくれる人とお付き合いしてみたい。

食事は(そして食事をする環境は)良くも悪くも、主体の体から心まで直接影響を及ぼす。私はそこに他のあらゆる営みとは一線を画した力を感じる。
そして同時に、一緒にご飯を食べる「私」と「あなた」は全く別の生き物なのだと痛感する。


・・・・・・


食事を作る「私」と「あなた」。食事をいただく「私」と「あなた」。
同じものを食べて「美味しい!」と微笑みあう「私」と「あなた」。同じことをして、運よく共有まで出来ているのに、どうしても遠く感じる。
私が会食などを苦痛と感じる次点の要因となっている気もする。何かの拍子で敵対する可能性がある危うさを隠して、どう感じたかは別として今この場では「美味しいですね」という表情をする。固定電話機でメールは打てないようなもので、道具と使い方があべこべな感じ。

「ひとつの場に集まり」「各個体のスピードで」食事をすることを、私たちは「一緒に食べる」と呼ぶ。私たちはユージーとユーシーのようなことはできない。
私たちは別個の生き物だ。という感覚について、あるエッセイを読んで腑に落ちた。


unicoco.co


そうか。どんなに美味しいものでも「あなた」の体に入った後は目に見えず、どうなっているのか分からない。とても単純なことだけど気付かなかった。
「あなた」が咀嚼したものが、「私」の体と同じ影響を与えているのか、「私」は知ることができない。
同様に「私」も自分の体に起こっている変化の全貌を完璧に知ることはできない。ちょっとした体温の上昇や、気持ちのやわらぎを言葉にするくらいが関の山だ。「私」が感じられないだけで膵臓や肝臓はひどく疲弊しているかもしれない。


このエッセイの中で、一番ドキっとした一節を引用したい(先に述べておくと、表現が少々物騒だからではない)。

毎日、包丁を握る。刃先がぎらりと光る。これで同居人を殺せるのだと実感する。わたしの出す料理が同居人の肉体を形成し、明日を生きる体力を与えているのだから、それは生死を左右するのと同じことだ。包丁でぶすりと刺すまでもなく、わたしは同居人の生殺与奪権を握っているのである。

やっぱり食事は力だと思った。人間が料理を作り、本人や第三者が食すことで発生する、生かすも殺すも作り手次第の神的な威力。
その力を以てして消化器官の活動を維持し、今日も命を長らえる。成長期の子供が日々大きくなる。好きなものばかり食べている人の臓器は、じわじわ痛めつけられているかもしれない。
私たちは与えられた影響を隅々まで把握できることはないままに、また次の食事のことを考える。


・・・・・・


鷲田清一『感覚の幽い風景』にこんな一節がある。

「じぶん」の成立というのはひとつの損傷であると言えるかもしれない。
母からの、世界からの剥がれ、そういうものとして「わたし」は誕生するからである。

「わたし」というものがわたしだけのものではなく、誰もがじぶんを指し示すときに「わたし」と言ってよいこと、「わたし」はあなたにとっては「あなた」であり、「あなた」はあなたにとっては「わたし」だということ、そのことの了解のなかに「わたし」は生まれる。<他者の他者>としてのじぶんの了解、その上に「わたし」が編まれるのだとしたら、わたしが「わたし」として生まれたときには、唯一のものとしての「わたし」はすでに死んでいるということになる。わたしは誕生とともに死ぬ。たがいに別個の存在として「わたし」を了解しあう、そういうたがいの隔てのなかで、ひとはすでにじぶん自身とも隔たっているのだ。*2


これは「ほころび ー 食について」という章の一部である。
自分自身を理解することは人生を送るうえでとても大事なことのうちの1つで、しかし咀嚼した食べ物の全貌(=体内で起こっているあらゆる影響)が分からないように、「わたし」たちは生きているうちに自らの全てを把握することはできないのだろう。
そのうえでより「あなた」のことも分からない。
誰もが「わたし」であることを了解し、了解されている。否が応でもそういう土台からなる世界の中に生まれて、出られることのないままいつかは必ず死ぬ。だからそれまでに、自分の見えない部分の想像のように、「あなた」にとって「わたし」である「あなた」を思えたら。


例えばもうずっと会えていない家族や友人。こちらが一方的に少し知っているだけの有名人。ニュースで聞く行ったこともない場所や国。そこで「わたし」が存在すら知りえない「あなた」が笑ったり、傷ついていたりするかもしれないこと。

私は「わたし」すら絶対に理解しきることはできないという絶望的な世界との隔たり。
それって本当に怖い。世界を、手の届く範囲に矮小化してしまいたくなる。かわいくてていねいな暮らしに、熱中できる趣味に、私の脳でも理解できる陰謀の筋書きに。
でもそんな私みたいな孤独な生き物たちが、抜け出すことのできない世界で寄り合って今日もご飯を食べている。
「わたし」の中に「あなた」がいて「あなた」の中に「わたし」がいるという想像力。今私たちに必要なものはこれではないだろうか。そしてこれを大前提とした政治からなる社会のシステム。

こんな観念的なことを私はきっとすぐ忘れてしまう。ただただ暇な午後や眠れない夜に、「私、この先大丈夫だろうか」と思うだけで、一瞬にして私の世界には「わたし」しかいなくなる。
だから形にしておきたい。できれば満ち足りた食事をするときくらいは、「わたし」を思いやりながら「あなた」を思えるように。

2018.11.16.はじめてゆるふわギャングを見た夜の話

fnmnl.tv


今詳細を見ればこのパーティーの豪華さを理解できるが、当時の私はHIPHOPに出会ったばかりでゆるふわギャング(とかろうじてKID FRESINO)の名前しか分からなかった。
田我流の読み方もFNMNLが何かも知らなかったし、ライブハウスはデイのZeppTOKYOとLIQUID ROOMしか行ったことが無かった。
24時から開演するというのも気がかりだった。タクシーを使ってしまうと代官山から最寄りまでは結構かかる。だから始発まで帰れない。

それら全てを、本物のゆるふわギャングを見てみたい一心が飲み込んだ。
チケットを決済しながら「3000円ちょっとでゆるふわギャングって見られるんだ!?」と思った。
今でも度々ライブチケットの安さに驚く。思えばそこから既にはじめて尽くしが始まっていた。


当日は仕事中も「今日ゆるふわ見るんですよ~」と浮かれながら、(何も知らない地下ドルオタの先輩はにこやかに「そうなんだ~」と話を合わせてくれてとても優しかった)23時、コートと財布だけを持って恵比寿駅に降りた。
仕事着のグレーのロングコートもペンシルスカートもたぶん場に合ってないということは感じていたが、寒かったし他に適当なものが無かった。

確か直前にSNSでタイムテーブルが出て、ゆるふわギャングの出演時間は朝5時ごろだと知った。終電で行こうと思い、でもマックで何か食べたい気持ちになったので結局早めに着いた。
24時すぎにUNITへ到着したがまだ開場しておらず、歩道の両端に作られた待機列が(チケットを持っている人と持ってない人に分かれていた)駒沢通りまで伸びるくらい長かった。どちらの列もにぎやかで楽しそうで、「人やばい」「これ入れなくない?」と言っていた。
私はチケットを持っている人用の列に並んだ。やっぱりコートはフォーマルすぎて合ってなかった。何もかもが初めての経験で口から心臓が出そうだったが、その時たまたまカラーリングが落ちた金髪だったからなんとか平然とした表情を保っていることができた。


予定を大幅に押してセキュリティーチェックが開始された。私の真後ろには大学生くらいの2人組の男女がいて、入口の扉すぐの螺旋階段に人がたくさんたまってるのを見て咄嗟に混乱していたら「たぶん大丈夫ですよ」と言って先を促してくれた。チケットに「別途1D必要」と書かれていたことが気がかりで、バーカンに「ドリンクってここですか?」と、聞いた瞬間自分でも「何言ってんだ?」と思った質問にお姉さんは騒音の中「そうです」と返してくれた。あの時、視界の端で小さなステージに立っていたのは今思い返すと、Tokyo young VisionかYamiezimmerだったかもしれない。

何となく人の少なさに不安になってもう1階降りてみると、そこには信じられないくらい人が詰まっていた。その年の夏、初めてフジロックに行ったときにも人の多さに驚いたが、屋内である分よりどこにも隙間が無いように感じられた。フロア前のサロンで飲んでいた人たちが「もう今からの人入れなくない?」と笑っていた。その声を聞きながら、遠目で豆粒みたいな大きさのKID FRESINOを見た。

私はどちらかと言うと融通の利かない人間で、見たいものを見逃すくらいなら待つことに時間を割いてしまうタチなのでそこからずっとメインステージ付近に突っ立っていた(アイドルのコンサートでは近くのメンバーより遠くの自担ばかり見ていたし、先のフジロックでは、ケンドリック・ラマーを可能な限り近くで見るために、SKRILLEXではしゃぎ疲れている友達を雨の中1時間以上立たせて待った。これは特別なシチュエーションだけど、もっとタスク感より楽しさを優先できる人間になりたいと思っている)。
正直仕事終わりで眠たかったしぼんやりしていた。何度もスマホで時計を見た。だが気づけば最前近くまで来ていた私は、Vavaが出てきた盛り上がりにあっけなく飲み込まれてしまった。隣の男の子が私の肩を組んだが、全く背格好が違うので振り落とされないようにするしかなかった。飛び跳ねているときはポケットの長財布が落ちてないかということばかり気にしていた。モッシュに巻き込まれない位置で、きれいなお姉さんが柵にもたれかかりVavaをうっとり見つめていた。最前近くにいるとこういうことがあると知ったのもこの時で、足も痛いしなんかベタベタしてるし、もう実を言うと疲れて帰りたかった。
自分は本当に何も知らないんだなと思った。でもDJが流した「2018(feat.Vingo&Benjazzy)」にのれた。周りもめちゃくちゃ盛り上がっていた。それが純粋に嬉しかった。

ほとんどすべてが初めての経験だった。だから今でも強く覚えているし、強烈に脚色されているかもしれない。

文字通り、5時まで、待ちに待ったゆるふわギャングは私が知っていた「ゆるふわギャング」そのままで、でも大好きなNENEがとても大きく見えた。彼女の顔はキャップとパーカーで隠されていてほとんど見えなかったが、露になった太ももが鮮やかに照明のピンク色に染まっていた。
その時まで「撮影するより自分の目で見たい」と思っていたが、アレンジが加わったPalm Treeで抑えられなかった。
何度も真似した大好きな曲、一瞬で心を掴まれたアレンジ。感激した。

客はさらに盛り上がり、酔っぱらった若い男の子が、ほぼステージにあがるくらいの勢いで背後の小さな女の子の視界をふさいだ。私も遮られてさすがにムカついたとき、ずっと彼に中指を立てていた別の女の子が横から割って入り降りるように強くジェスチャーした。

私はその日まで「ゆるふわギャング」の曲を聴いてもMVを見ても、無意識のうちにNENEを追いかけていた。それほどNENEは私にとって強烈なアーティストの一人だったし、今もそれは変わらない。けれど目の前に来たRyugo Ishidaを見上げた時、自分は勿体ないことをしていたと思った。

少し俯くような姿勢でステージを踏みしめ、頭から爪先まで狂いなく接続された回路が強くしなやかに運動し、彼の肉体の力の全てが彼の発するラップのために使われているような、初めてRyugo Ishidaを見る私にとってそのパフォーマンスは圧巻だった。目が離せなかった。スマホを掲げるのを忘れた。全身が彼のラップを作っていて、ラップが彼の全身を作っているみたいだった。
勿論違う表情もたくさんあったのだけど、目の前で見たあのパワーが忘れられない。両足を柔らかくふん縛るポージング、全身ぬかりなく込められた力、何度も繰り返し聴いた初めて聴くラップ。

あれからゆるふわギャングのステージをほとんど見に行けていない。早朝の恵比寿駅のホームまで走って、夢見心地で、「行ってよかった!」という気持ちを嚙みしめながら今はもう無いTwitterのアカウントに殴り書いた、あの印象がずっと消えない。

越境するユーレカ -”推し”とラッパーを分けるもの-

ニキビが増えた。
あれ?と思ったのが約2週間前。顎から始まりみるみる口まで広がった。恒例の「口周り ニキビ 原因」でググり、一番上に出てきた「睡眠不足」で納得した。
理由は明白だ。私は今、並行して3つのオーディション番組を見ている。
一度見始めると「あと1話だけ」「あと10分だけ」「この審査だけ」が止まらない。睡眠時間を犠牲にするほど夢中になってしまった。

公開オーディション番組は、展開の道筋が明快だ。
段階的に誰かが選ばれ、同時に誰かは選ばれない。より(少々乱暴に)単純化すると「勝ち/負け」の構造が物語の基盤となる。それだけでも強烈なインパクトがあり、視聴者を惹きつけるドラマ性を内包していると感じる。
*ドラマと言うと良質なもの・感動するもののように思えるが、同時に苛虐的な側面があるのも事実だ。SKY-HIはインタビューで、それについて当事者側から説明している*1

さらに、私は集団の中から”推し”を見つけ、応援することに適正を持つ人間でもある。
持ち前のスキル、人間性、ふと見せる表情、もしくは容姿…何が”推し”を”推し”たらしめるかは人それぞれだろう。
私の場合は、歌・ダンス・ランウェイなど…パフォーマンスがきっかけとなることが多い。そして「探して見つける」というより「え!?見つけちゃった!」といった方が正確だ。
「番組の性質上、応援する相手がいるとより楽しめる」という理由で、能動的に一部の人間に注目する場合がないとは言い切れない。
だが大抵、推しは突然現れ”推しとなる”。落とし穴に落ちて初めて「見つけてしまう」。気づけば穴の深くで身動きが取れなくなっている。目が彼/彼女ばかりを追いかけている。眠る前に「あの時のダンスもう一回確認してから…」なんてやってると、アドレナリンが暴れだしてさらに寝つきが悪くなる。

 

オーディション番組に限らず、私はこういった”誰か/何かを推す”行為を長く繰り返してきた。テレビに映る人、身近な人、商品や会社に至るまで「好き」を「推し」と表現することはごく単純で日常茶飯事的な行為となっている。
そして、私は自分のことをHIPHOPファン(ヘッズ)だと自覚し、ラップミュージックとラッパーを愛している。
お気に入りのラッパーを”推し”と呼ぶヘッズは多くはないと感じるが、私にとっては好きなラッパーも”推し”なのだろうか?

超個人的なことだが、改めてそれを考えるに至ったSKY-HI主催のオーディション番組「THE FIRST」から始まり
推しとラッパー、そして自分、この三者の関係性を整理したいと思う。
ぜひ楽しんでいってもらえたら嬉しいです。

 

THE FIRSTとは

SKY-HIが設立した株式会社BMSGが行っているダンス&ボーカルのボーイズグループオーディション番組。NTV「スッキリ」でコーナーが組まれており、完全版は「Hulu」で配信中。Youtube版もある。

bmsg.tokyo

 以前SKY-HIがインタビューで語った、昨今のアイドル文化に対する批評が印象的だった。音楽業界全体に影響を及ぼすほど大きくなったこの文化を踏まえて、彼ならどんなアーティストグループを作るだろう?と思ったのが視聴のきっかけだ*2。(あとChaki Zuluが好きなので。いつ出てくるかな? 待ってます。)

番組は二次審査(個人面談型のパフォーマンス審査)から始まり、30人を5チームに分けたグループ三次審査(2日間)を経て、四次が15人での合宿審査(1ヶ月)という流れで進んでいる(*6/5現在)。

課題曲にDaichi YamamotoやAKLOが使用されており、朝から地上波にかっこいい音楽が乗っている状況はヘッズとしても嬉しい。

そして参加者の中にも、既にラッパーやアーティストとして活動している人がいる。
*三次審査まで進んだ内野創太くんの音源、おすすめです。

youtu.be

 最終的には5人が選ばれ、ボーイズグループとしてデビューする予定*3

 

「THE FIRST」の”推し”について

*ここで自分の「推し」という言葉の意味をより明確に書きたい。既に「推し」はかなり一般化した言葉となったが、同時に、使用者によって細かなニュアンスが変わると考えられるからだ。
明鏡国語辞典 第三版』*4には「特に引き立てて応援している人や物。お気に入り」とあった。また、『三省堂現代新国語辞典 第六版』*5には「人に推奨すること」とある。
広辞苑 第七版』*6には記載がなかったが、語源の「推す」については「(人をその地位へ)すすめる。推挙する。推薦する。」とあった。
さらに辞書サイトには「人やモノを薦めること、最も評価したい・応援したい対象として挙げること…(中略)「同種のものの中ではこれが一番好き」という意味合いで広く用いられるようになりつつある。」(weblio辞書)ともある。

共通するのは「応援」「推薦」だ。
ここに私なりの感情を込めて「自分以外の人にも知ってほしくて、出来ればいいね!と言ってもらいたいほど好意的に応援している人」にする。

 では、こちらの動画を見てほしい。

www.youtube.com

 テレビから「Neo Gal Wop」が流れ「お、やったー」と思った。大好きな曲の1つだ。
次の瞬間彼が踊り始めた。複雑な筋肉の振動が、トラップビートごとJP THE WAVYの声と重なった。
それが今回の落とし穴だった。ワイプの中でスタジオがどよめいた。
パフォーマンスが終わって咄嗟に「この曲をこんなにかっこよく表現する人がいるんだ…!」と思った。ちなみにSKY-HIのコメントは「お金払わなくていいのかな」だった。

もし曲が違っていたら、ダンスのジャンルが違っていたら、そもそも私がHIPHOP好きではなかったら、巻き戻しと再生ボタンを往復することもなかったかもしれない。

調べてみると彼はプロのダンサーらしい。世界大会での優勝経験があり、有名アーティストのバックダンサーも務めている。
だがキャリアやトロフィーという”実績”が、推したい気持ちをさらに強めるかというと必ずしもそうではないのが面白いところだと思う。

そこから推測できるのは、彼は努力を継続してきた人で、先の表現は経験に裏打ちされているのだということ。そこに偶然、自分の好きな音楽が重なってしまった。それは一瞬の火花に近い化学反応のようなものだった、という他無い。

島雄壮大くんは、これ以降も頻繫に取り上げられた。
三次ではチームリーダーに指名され、個性的な面々を率いてパフォーマンスを成功させて、個人の順位を6位から4位にあげて四次へと進んだ。その四次審査では、チームメンバーとコレオグラフしながら、自身のパートにはラップを書き、ラップ用の声も作り上げた。

www.youtube.com

自負があるだろう得意分野を引っさげて参加しながらも、新たなジャンルも確立しようとする姿に、応募動機の「自分の表現する音楽をもっと広い世界でやりたいと思った」という言葉が思い出された。
言行一致で歩を進め、そのプロ意識でチームのフォローにも貢献する。審査後、涙ながらに語られた彼のコメントは多くの番組ファンの胸に響いたのではないかなと思う。

またポーカーフェイス気味の彼が、楽曲制作中に笑顔を見せたり、参加者たちとふざけたりしているオフショット姿には胸がキュンキュンした。ここまでくると惚れた欲目で、画面の端に姿が映るだけで嬉しいし、果ては名前まで愛おしく見えてくる。
誰かを推すってこういう感覚だったなと思った。

”推し”と自分の距離

私は好意を持つものに対して頻繫に「推し」「推す」と言う。だから、まるで久々に推しているかのような言い方は語弊があるのだが、単純な好意を超えた、先述のニュアンスまでが含まれるのは久々の感覚だった。 そして、かつて私が抱いていた"推し"感情はまた少し違っていた。

初めて見つけた”推したち”の話

大学生の時、初めて"推しを見つけた"。ジャニーズだった*7
歴代の推しは2人。容姿から惹かれた。どちらもかっこよくてかわいくて、あまり愛想笑いをしないところと、好きなものに全力を注ぎ他はおざなりにしても何となく許される人間ぽさが好きだった。

私は推したちを収集し、自らと対照した。

コンサート以外の用途が無くても、「なんか今回のビジュ違うんだよな…」と思っても推しのうちわは必ず買う。服も推しカラーを選ぶ。コンビニのコラボグッズを自引きできなければSNSで探す。延々とネットを徘徊し、見たことのない推しの写真を保存する。推しがやっているからという理由で同じ習い事を始めた。私のハマりぶりに興味を持った友達がグループのファンになってくれて、よく一緒にコンサートへ行った。

更に出演番組やインタビュー、ファンの間で語り継がれているエピソードも収集し、推したちと自分を対照した。
彼らの言動に共感すれば運命を感じ、好みのタイプと違っていれば自分を恥じ、真摯な姿を見れば尊敬の念を抱いた。
それは彼らのごく限られたミクロな部分へのフォーカスだった。個人的な好みや考え方に共感すること、ふと垣間見える弱さに胸を焦がすこと、カメラの前で苦難に立ち向かう姿を誇りに思うこと、それは推しと自分を見比べて「近しい部分がある存在同士だと結びつける行為」でもあった。

私の目の前に現れたとき、推したちはとても遠いところにいた。
物理的な距離から性別、すらりと長い手足や年齢まで、推しは肉眼で観測できるきらきらした星のようだった。
魅惑的な遠い星の美しい横顔に自分と近しいものを見つけたときの喜びは(それが彼らの本当の姿だと信じて疑わなかった)、何というか、非常に特殊なものだった。
つまり私は遠くにいる彼らの中に「なりたい自分」を見ていたのだった。

"推し"が見えなくなった

社会人になってすぐ、ネガな状態が続くようになった。休日の余白の時間が怖くなり、以前ほどの熱量で収集・対照することができなくなった。
それまで、失恋したときも就活がうまくいかなかったときも推しの存在と歌声に励まされてきたはずなのに、漠然とした不安が霧のようになり、星どころか自分の体も見えなくなった。今思えば、遠すぎるものばかりに自分を依拠していたことの反動だった。稼いだお金をいくら趣味(※主にアイドル以外の)につぎこんでも満たされなくなった。

それぞれのグループの勢いも下降気味になった。あまりバラエティーやドラマに出ない推したちは更に露出が少なくなった。そのうち1人が事務所を辞め、もう1人はグループ自体が活動を一時休止することになった。どちらの選択もポジティブなものだったので心から応援していたが、彼らを目にする機会はぐんと減った。

このブログを書くためにLINEのトーク履歴で「推し」と検索してみると、2017年ごろから何かにつけて「推し」と言っている。「好き」や「お気に入り」よりフランクで、「おすすめ」以上の意味もある。やっぱり便利な言葉だなと思う。でも、どれも彼らを推していた気持ちとは少し違うようだった。

推しは偶像から少しずつ離れ、退所や休止という形で一個人の輪郭を見せ始めていた。
その姿はまたもや「なりたい自分」と重なった。華々しい実績を持つ人間でも、それを降ろしたり、一度休んだりすることを選べるのだと知った。それでも私は私自身に対してどうしていいか分からなかった。私が対照すべきは私自身だった。

ラッパーと自分の距離

HIPHOPを知ったきっかけは、大学時代の友人に誘われた「ラッパーのワンマン」だった。

軽い気持ちでついていき、場の空気感に圧倒された。ステージでもフロアでも誰もが好きに立っていて、好きに声をあげてお酒を飲んでいた。こんなに空間が存在するんだと驚いた。一瞬でも霧が晴れるような思いだった。

主にラップミュージックを聴き、ラッパーを追うようになってしばらく経つ。まだ知らないこともたくさんあるが、HIPHOPに(そして何より友人に)感謝している部分が大きい。
だから好きなラッパーたちがもっと売れて、もっと世間から知られて、もっと評価を受けるべきだと思っている。パーカーも買う。インタビューも読む。投げ銭する。テレビに映ったら思いっきり喜ぶ。いけると思ったらおすすめもする。
これまでの私の”推し”要素は満たしている。私は好きなラッパーを”推して”いるのだろうか?

「ラッパーを推しと呼ぶな」論争を考えてみる

以前SNS上で「好きなラッパーを推しと呼ぶのはどうなのか」という発言をよく見かけた。

先述の通り”推し”は現在広く一般に使われているが、元はアイドルカルチャーから生まれた言葉だ。そのイメージは根強い。また元々HIPHOPカルチャーにはスラングが多く、そこへ別のカルチャーの言葉を置いた際に違和感が出るのは当然だと思う。

更に考えたいのは、HIPHOPカルチャーを考える際に避けて通れない「ミソジニー(女性蔑視)とホモフォビア(同性愛嫌悪)」の影響だ。

i-d.vice.com

 
アイドルは、主に2種類のパフォーマンスでファンに恋愛を表現する。

①「自分-ファンの疑似恋愛」
②「メンバー(同性)同士の疑似恋愛的なコミュニケーション」
これは主に男性アイドルが行う、メンバー間での所謂「わちゃわちゃ」かつ「イチャイチャ」なスキンシップを指す。それは単なる仲良しアピールにとどまらない。彼らへ「もしメンバーと付き合うなら誰?」などの恋愛を想起させるような質問が向けられるのはお決まりだし、雑誌によってはメンバー同士のキス写真も掲載される。
これにより「女性の存在を無化する「偶像」になることに成功し(西条・木内・植田,2016)」*8、恋心の強いファンへ「彼の心はメンバーに向けられている」という安心感を与えることもあるだろう。

*少し脇道に逸れるが、これに関してクィアベイティングの側面も否定できないと思う。私たちは他者のセクシュアリティを本人の意思と関係なく願っていないか?その危険性と海外での動きがこちらのニュースにまとめられている。また『ユリイカ』2019年11月号の「「kinda」の呟きから揺らぐ「正しさ」 ビリー・アイリッシュクィアたりうるか?」(木津 毅)もおすすめだ

 
主に異性を恋愛的要因で夢中にさせる仕事(さらに「誰かに恋すること」は主に女性のものだというイメージが存在する)、そしてメンバー内での恋愛関係を示唆するようなファンサービスによって「同性だけで収斂する世界観」を強化するシステムは、ミソジニーホモフォビアと非常に相性が悪いのではないか。

故に、そのカルチャーから流用された言葉にも強く拒否反応が示されているのではないだろうか?というのが私の見立てとなる。

 

ラッパーは”推し”か?

大前提として、(一般化された・差別的な意図を持たない)言葉を使う・使わないはあくまで個人的なことだ。言葉1つで「HIPHOPだ/じゃない」と決めるのは形骸的だし、そんなことに意味は無い。くだらない。

それを踏まえたうえで、私の出した結論も超個人的なものだ。

「ラッパーと”推し”は包含関係にある(”推し”⊊ラッパー)。”推し”は真部分集合だ。だから私はあなたたちを極力”推さない”」
(二枚舌のようで申し訳ないが、真部分集合かつ極力なので使うときもある)

この考えを言語化するまでにかなり時間がかかった(苦手な数学的概念を持ち出しているので、間違えて理解してたら教えてください…)。そして強く言いたいが、これは階層的な話ではない。ラッパーだろうとなかろうと、どちらが上も下もなく、同等に好きで応援している。私にとっては心から必要で、大切な存在だ。

でも彼らを推すには、私はあまりにも近すぎた。

アイドルが天体観測であれば、HIPHOPは流れ星で隕石だった。
暗い空に燃え盛るなにかがあった。何気なく近づいたら、それは私の惑星に思いっきり衝突した。跳ね飛ばされた衝撃でマントルが露出し、流体が新しい地表を作った。今まで近くにあったのに気づけなかった新しい間欠泉が発見された。

HIPHOPは、私がこの社会で生き延びるための切実な方法として現れた。

そのむき出しのかっこよさに抗えず、目に見える隕石を手当たり次第に漁った。手近だったMCバトル番組から入り、音源を探すようになった。ゆるふわギャングのボースティングに尻を叩かれ、KEIJUのリリックに感銘を受けた。田島ハルコで笑い、KOHHで踊り、Jin Doggが怒ってくれて、心が動揺したときはMoment Joonを思い出すようになった。

音楽以外でも影響を受けた。選ぶ服が変わり、読む本のジャンルが増え、誰かと話したくてSNSを再開させ、それまで無知だった社会問題にも目を向け行動するようになった。

ラッパーとひとくくりに言っても本当に様々な人がいる。
性別、ルーツ、育った環境、経験、彼らがHIPHOPと出会ったきっかけ…。似た要素はあっても、レイヤーが重なり合ったとき全く同じものは存在しない。そして、それこそが社会の有り様なのだと教えてくれた。彼らの表現する欲望がたまたま大衆的であっても、彼ら自身が都合のいい偶像にはならない。どこまでも鮮烈なリアリティを体現し続ける。

「最も個人的なことは、最もクリエイティブなことだ」

みな一様に遠く、たまに接近し、だからこそ彼らの言葉が真に私のものでもあるように感じられる。私は他人に影響を受ける脆さを抱えたまま、故に奮い立つことができる強さを兼ね備えていると理解した。私は私を主体として、あらゆるものまでの距離を計測する練習を重ねている。流れ星は今も降り続け、私の地表は崩壊と再生を繰り返している。

あなたたちを推さないのはわたしが近いからだ。

 

推しがラッパーになるとき

最後に、今の”推し”の話に戻る。
三次審査後、SKY-HIは彼にこうコメントした。

「ソウタは…さらにラップがどんどんと良くなっていって/ダンサーの子がラップをしているのではなくて/とてもダンスの上手いラッパーに明らかになっている」*9

さらに四次審査期間中には彼のラップに対して、Novel Coreと共に「最大限のリスペクトと感謝」と述べた(詳細は現在Hulu版でのみ確認できる)。 また本人は「成果が見えてきた」と言っている。その真摯な姿勢がグッとくる。テレビの前で何度目かの「わ~!推す!」が出た。

え、待って、”推し”がラッパーになる可能性があるってことだよね? 初めてのパターンに遭遇した。どうしよう、とても楽しみだ。でも仮に本当に彼がデビューできたとして、本当にダンスの上手いラッパーとして完成したら……私は彼を推さなくなるのだろうか?

私はラップミュージックが好きだから過度に期待してしまうが、あくまでラップは表現方法だ。形よりも、彼がどんなノリ方でどんな表情をして何を言うかに注目したい。何よりすでに彼が発する言葉は魅力的だ。
だから彼がラップという手段をものにしたときに、その言葉がより鮮やかな輪郭を持って広がっていけば嬉しいと思っている。

私にその距離を測らせてほしい。

*1:SKY-HI 「自分を見ている人がいる」が成長につながる|NIKKEI STYLE

*2:【トークセッション】SKY-HI×AWA「令和時代の音楽ビジネスはどのように変貌していくのか」 | OKMusic

*3:追記:8/13に7人組ボーイズグループ「BE:FIRST」としてデビューメンバー発表が行われた。

*4:2020.12.10発行

*5:2019.1.10発行

*6:2018.1.12発行

*7:本来、ジャニーズファンは好きなジャニタレを「自担(自分の担当)」と呼ぶ

*8:西条昇・木内英太・植田康孝「アイドルが生息する「現実空間」と「仮想空間」の二重構造〜「キャラクター」と「偶像」の合致と乖離〜」江戸川大学学術リポジトリ (nii.ac.jp)

*9:THE FIRST -BMSG Audition 2021- #6